きゃああああああああああああ

 悲鳴。ボルスは耳をつんざくそのすさまじい女性の絶叫に卒倒しそうになった。だが気を失っている場合ではない、とにかく謝らねばならないのだ! さあボルス土下座をしろ! ああだんだん顔が熱くなってきた、落ち着け、理性を保て、激しく打つ心臓よ、どうか鎮まってくれ!

「クリスさま申し訳ありません!!!!!!!!」

 ボルスはこれでもかというくらいに膝を折って両手をつき、穴を空けそうな勢いで額を床に押しつけた。前方ではクリスがバタバタ駆け回っている音が聞こえるが、何をしているのかは見えないので分からない。
 ああ、なんということだ、耳まで痛いくらいに熱くなってきた! 冷や汗が全身から吹き出し、鎧の中を湿らせていく。甲冑を身に纏って土下座をする経験などなかったし、身体が床に突っ伏すとこれほどまでに鉄が重くなるということをボルスは今回初めて知った。頭に血がのぼって苦しいし、できれば起き上がりたいが今はそうすべきではない。なぜなら目の前には彼女の、気高き清廉な乙女の、長い銀髪と白い肌が、露わな、その、背中とか、胸とか、脚とか、そういったものがあるのかもしれないのだ!
 見たい。正直もう一度見たい! 風呂上がりだと知らずに部屋に入ってごめんなさい! 自室に戻っているはずなのに戸を叩いても返事がなく、なぜか鍵も開いていて、もしかしたら何かあったのではないかと心配になって勝手に入ってしまいました! ああ、このシチュエーションはおそらくサロメ殿にしか許されないのに(ええい、なぜあの軍師ばかり)、クリス様とろくに距離も埋められぬ情けない男がまさか騎士団長の全裸を見てしまうなど……! ちくしょう、湯浴みしてるならそう言ってくださいよ! なんで返事をしなかったんですか!

「だって返事をしたら入ってくるだろ! 慌てて着替えようとしたらお前が入ってきたんだ!!」

 じゃあ「入るな」ってドア越しに言ってくれればよかったのに。
 顔を真っ赤にし、机に突っ伏しているクリスは、慌てていたせいで適当な服しか見つからなかったらしく黒色の長いワンピースを着ている。白い二の腕が露わになっている無防備なクリスの姿を、立ち上がったボルスはどこか恍惚とした気持ちで見下ろしていた。
 幸い、悲鳴を聞いたのは近くにいた兵士だけだったようで、サロメやパーシヴァルが血相を変えて飛んでくるということもなかった(そうなっていたら今ごろ首と胴体が斬り離されている)。何事ですか!と青ざめて駆け寄ってきた兵士たちに「なんでもない、持ち場に戻れ」とクリスの自室の出入り口で通せんぼして冷静に対処する自分にボルスは心底感心した。

「もう! お前なんて! お前なんて!!」

 死ねばいいのにと続きそうだが、心優しい彼女にはどうしても言葉にできないのだろう。ああ、可愛らしい。できることなら彼女を抱き上げてすぐ側のベッドに運びたいのだが、そんなことをしたら二度と口を利いてもらえないので理性でもって衝動をこらえる。そもそも自分たちはそういった関係ではないのだ。
 胸元に流れ落ちるその銀髪に触れたい。赤くなっている小さな耳の先に口づけをしたい。女神ロアよ、六騎士としてこの女性の近くにおれを置いてくれたことには感謝しますが、なぜいつまでもおれの想いは報われないのでしょう? アプローチしてもてんで駄目です、彼女はあまりにも恋愛に疎く、信じられないほど鈍感なのです。おまけに軍師が般若のような顔つきでガードしてくるし……
 色々と思い出して落ち込んでいると、不意にクリスが自分を見つめていることに気付く。未だ彼女の頬はリンゴ色、目には悔し涙が浮かんでいたが、果たして絶世の美女のこれほど可愛らしい姿に欲望を覚えない男がいるだろうか?
 押し倒さない分だけましだと深く溜息をつき、ボルスは訊いた。

「あの、クリス様。もうおれは充分すぎるほど謝ったと思います」

 小一時間謝り続けたが、クリスはなぜか「まだ戻るな!」と言ってボルスを部屋から帰してくれなかった。きっと外部に今回の事件が漏れることを懸念しているのだとボルスは予測したが、そもそも「騎士団長の全裸を見た」などという世界の男どもから一生分の恨みを買いそうな話を自分から進んでするわけがない。そんな自慢をした日には己の墓標が立つことだろう。

「どうしておれを開放してくれないのですか?」

 想い人である女性と密室にいて何もしない自分は神々から賞賛されても良いくらいだ。少しの疲労感を覚えて嘆息混じりに問うと、クリスは長い睫毛を伏せ、恥ずかしそうに身動ぎし、沈黙した。
 その時、ボルスはハッとした。ある考えが頭に浮かぶ。いや、待てボルス、こういったことを早とちりすると大抵ろくなことにならんのだ。男なら冷静さを保て。たとえばあの不動のロラン殿ならばこういう時どうする? いや意外にロラン殿もああ見えて……違う。やめろ。そういった目で人を見てはいけません。
 だが、気になる。もしかして、万が一、ということがあるのだ。彼女が部屋の鍵を閉めさせてまで自分と一緒にいる理由。

「もしかして、クリス様。
 おれと、一緒にいたいのですか?」

 留まることを知らぬ烈火のボルス、よく率直に訊いたものだ。下手に遠回しに言って何度も失敗したからな、教訓というやつだ。
 するとクリスは泣きそうな顔になり、パッと両手で顔を覆った。
 おや……? ちょっと待て、待て待て待て待て? 何が起きた? なぜ彼女は否定しない? ますます赤くなって机に突っ伏している。まるで顔を隠そうとしているかのように。どうして恥ずかしがる? クリス様教えてください、なぜですか?
 これは、もしや。どきどきとうるさいくらいに胸が高鳴る。ある予感がボルスの中で大きく膨らみ、鮮明に姿を現そうとしている。これは、これは、もしかして、いわゆる偶然から始まる必然なのではないか?
 クリス様? ボルスはそっと近づき、緊張と期待で震える手をクリスの素の肩に置いた。びくりと身体を震わせると彼女は美しい顔を覗かせ、潤んだ目で男を見上げた。

 視線が重なる。紫と、淡黄の視線が交差する。男も女も、きっと同じくらい心臓が鼓動しているに違いない。見つめ合う二人の世界が急速に縮小する。周囲の音が聞こえなくなる。彼らは互いの瞳に相手の真意を探し、そして、いつか見つけるのだろう、二人の中にある真実を。
 部屋に鍵はかかっている。二人の秘密が今、始まったのだ。